今日は、英語のハウツー小説?、
『もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか』
(もしなる)についてレビューしていくよ!
『もしなる』はどんな本なのか?
簡単に言ってしまうと、『もしなる』は、小説の形式で、日本の現状の学校での英語教育が時代遅れになっていることを指摘しつつ、著者の金沢優さんが考えている、英語の正しい学習法についての主張を展開している本である。
非常にキャッチーなタイトルと表紙で、本屋でみかけたら、「おやっ」っと思って手に取ってみたくなる。(実際、私も引っかかった。)表紙はライトノベル風であるが、中身の文章を見ると、平易ながらもしっかりとした文章で、著者の教養が感じられる。
また、amazonでのレビュー数が多く、評価も高い。
そのうちアニメ化とかされるんじゃないかと吉宏は勝手に思っている。
小説形式での英語のハウツー本という、非常に珍しい、少なくとも吉宏は初めて見たタイプの書籍である。
著者の金沢優さんのプロフィール
【著者紹介】によると、金沢さんのプロフィールは、
上智大学法学部卒業。大学在学時に、大手英会話スクールに数年間通ったものの、話せるようにならず、挫折を味わう。
大学卒業後は、テレビの番組制作に携わった後、脚本家を志し、シナリオの賞に入賞したのち、NHKのラジオドラマで脚本家としてデビュー。
その後、塾講師に転身するも、子供たちから「英語を話せるようになりたい」との要望を受け、再び英会話と向き合うことになる。
そして、偶然出逢った英会話教室の「英語で考える」という教え方に惹かれ、悩んだ末に塾を辞め、その教室に入会。話せるようになるために、再び一から英語を学び直す。それから数ヵ月後、そのスクールの教室長として、英会話講師デビューを果たす。
その後、大手英会話スクールに移り、大手企業の英語・TOEIC研修やセミナーの講師を務めつつ、霞が関にて官公庁職員への語学研修の責任者を担当する。
しかし、日本には英語を話せるようになるための「物語」が必要であると感じ、『もしなる』の元となる脚本を執筆。それがシナリオの賞に入賞となり、2017年に小説として刊行される。
将来の夢は、英語を話せるようになるため「だけ」に、日本人が留学に行く時代にピリオドを打ち、時代を一つ先に進めること。
ということである。
なお金沢さんは、2020年10月現在、自身が保有しているTOEICや英検の資格については情報を公開していないようである。探してみたが見つからなかった。『もしなる』の中で、日本人の英語はテストのための英語になってしまっていると指摘しているので、資格の有無を気にするスタンスはないようである。
個人的には、本の記述の信頼性を担保するためにも、保有資格は記載してほしいところではある。
ただ、小説の内容からすると、TOEIC900点以上の実力はあるんじゃないかと勝手に推察している。もしかすると、『もしなる』の主人公の保有資格が金沢さんの保有資格なのかもしれない。
なお、今は『もしなる』の続編を執筆されているようである。
『もしなる』のあらすじ(ネタバレあり)
主人公の桜木真穂は、中学校の英語教師をしている。学生時代は英語が得意で、TOEIC930点と英検準1級も保持しているが、英語を話すことができない。大学時代から、英語を話せるようにと英会話教室に通ってみたり、様々な教材を試してみたものの、スピーキングとリスニングに関して、リーディングのように上達を実感することができず、英語を話せないままでいた。
そんなある日、電車の窓から、「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになると思いますか?」というキャッチフレーズのついた、『吉原龍子 英会話教室』を見つけ、そのフレーズが気になって、教室を訪れる。
『吉原龍子 英会話教室』を訪れた真穂は、そこで、学院長の吉原龍子と、講師の葛城有紀に出会う。真穂は、有紀が帰国子女や留学経験者でもないのに、龍子の指導で英語が話せるようになったことを聞き、教室に入会しようとするも、教師であることを龍子に告げると、「学校の英語の教師は極悪人である」という理由によって、入会を拒否されてしまう。日本人が英語を話せないのは、学校の英語教師のせいであると。
教室の帰りがけに、有紀にもらったパンフレットによると、『吉原龍子 英語教室』が定義する『学校英語』とは、『日本語訳をさせて終わる英語』のことらしい。英単語の一語一語を日本語訳してから、日本語の単語を後ろから組み立てたら終わり、という英訳の指導のことである。
しかし教室の主張は、このプロセスすべてが害悪、かつ時代遅れであり、『イメージすること』こそが唯一の理解である、というものだった。
二日後に有紀を訪ねて教室を訪れた真穂だが、あいにく有紀は不在で、龍子と二人になってしまう。真穂は龍子に、「学校の英語はテストのための英語であり、使うための英語ではない。学校英語では言えないし語れないのだから、言語ではない」と言われてしまう。
後日、再び教室を訪れた真穂は、有紀から、「日本の英語教育は、明治時代に、西欧の文化に追いつくために行われた、書物の翻訳の技術を原型とし、それを盲目的に続けてきたために、英語を話して使わなければならない現代の状況に対応できていない」。また、「国は教え方を変えないで、ネイティブの授業やリスニングのテストを『付け足し』ているだけなので、根本的な教え方を変えないといけない」と聞かされる。
そして龍子に、「日本人が英語を話せるようになるためには、『日本人の教師が、英語を話せるための教え方を施す』以外、道はない」と指摘される。また、『話す』ことは言葉で相手に『イメージ』を授受することであることを具体例を交えて教わる。
話を聞いて、真穂は教室に入会したい旨を再度告げ、有紀の龍子への説得もあり、入会を許される。
教室に通って指導を受けるうちに、真穂は教室に感化されていき、自分が教師を務める学校でも、教室のスタイルを採り入れて、イラストや写真を使った単語テストの方式を始める。
ある日、単語テストの方式を変更したことで、真穂は学校で、学年主任の阿蘇に呼び出される。理由を尋ねられ、学生たちが将来英語を話せるようにしたかったからと真穂は答えるが、受験にスピーキングがないことを理由に元のテストの方式に戻すように強要される。
しばらくして、真帆はまた阿蘇に呼び出される。テストを元の方式に戻さなかったことと、関係代名詞の説明の仕方を、英語教室の考え方に沿って、従来のものから変えたためである。真穂は阿蘇に糾弾されるが、真穂が担任を務めるクラスの生徒たちが割って入り、次のテストで、全科目、前回のクラス平均点を上回り、かつ、英語のクラス平均点が、学年トップであったら、真穂のやり方を阿蘇が容認するという条件を取り付ける。
生徒たちの奮闘もあり、真穂のクラスはテストで、阿蘇の出した条件をクリアするが、阿蘇は真穂のクラスにカンニング疑惑をかけ、追試を要求する。しかし、真穂の同僚が龍子と有紀を学校に呼んでくれており、二人の協力もあり、阿蘇を了承させることができた。
『もしなる』に対する吉宏の評価
結論を先に述べておくと、『もしなる』は、小説としてはよくできているし、面白いが、英語のハウツー本としては、イマイチ説得力に欠ける、非合理的で非効率なものではないか、と言うのが吉宏の評価である。また、英語のハウツーのtipsがあちらこちらにあるので、体系的に整理した普通のハウツー本も出版してもらえると、著者の考えがよりわかりやすくなって良いと思う。(まあ出版しないだろうが。)
『もしなる』で、特に吉宏が良いと思うところは、著者の比喩の巧みさと、それを介して自分の主張をわかりやすく噛み砕いて人に伝える説明力の高さである。著者は元塾講師ということだから、生徒に繰り返し説明する過程で鍛えられたスキルなのかもしれない。
また、ときおり出てくるジョークもクスッっと笑いを誘われるものであり、著者にはジョークのセンスがあると思う。
シナリオのメインとなる葛藤の設定もうまい。英語のハウツー本でどうやって対立や葛藤を描くのだろうと思っていたのだが、主人公は、英語を話すための新しい考え方である英会話教室の教えと、古い考え方である学校教育の教えの間で、板挟みになり、葛藤するのである。
明確なシナリオを書くためには、善と悪のようなわかりやすい二項対立を設定するのが良いと思うのだが、著者の英語学習法を善(小説内の比喩では倒幕派)、学校の英語教育を悪(幕府軍)として設定し、善が悪を倒すというシンプルな勧善懲悪物にしているのも、シンプルだからこそ、人の心に訴えるものがあると思う。例えば最近では、半沢直樹なんかが吉宏にはそう見える。
また、人を動かすのは論理ではなく感情である、ということを踏まえて、ただのハウツー本でなく、小説形式にしたのも、頭の切れる著者の戦略の一環なのだろう。
以下は、『もしなる』の英語学習法について、検証していこうと思う。
ここからはだいぶ辛口である。
『もしなる』の英語学習法の本質は何か?
『もしなる』はあちらこちらに英語学習法のtipsが散らばっているし、tipsの出現順序も、論理的に必然的な順序になっていないように思われるため、一読した後、何が本質だったかイマイチ頭に残りにくい。(吉宏の頭が悪いだけかもしれないが……)ハウツー本としては、やや誤読を誘発しやすいつくりなんじゃないかという気がしないでもないのだが、『もしなる』の英語学習の本質は何かについて、根本から考えてみる。
まず、タイトルに戻って考えよう。『もしなる』の正式名称は、『もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか』である。もちろん答えは、「ならない」である。
なぜ「ならない」のか?
著者の主張では、日本の学校教育は、翻訳の技術を教えているだけであり、翻訳の延長上に、「話せる」は存在しないからである。
では、どうしたら日本人は英語を話せるようになるのか?
著者は、『話す』ことの定義とトレーニング方法について、少なくとも三つのことを述べている。
定義①『話す』ことは、『イメージの授受』である。
英語を日本語に訳した時点で、日本語の言語体系の中でイメージを捉えることになってしまい、もともと英語が保持していたイメージと、日本語が保持しているイメージの間にズレが生じてしまう。これはそのまま意味のズレとなり、『イメージの授受』の正確さ、ひいてはコミュニケーションの正確さが損なわれる。そのため、単語を覚えるときは、日本語を介さずに、イメージと英語を直接結び付けるのが望ましい。
定義② 『話す』ことは、『インプットしたものをアウトプット』しているだけでもある。
インプットが十分ある前提では、アウトプットの比率を上げること、つまり、英語を口から出す練習を大量にすることが、英語を話すうえで必須である。
定義③ 『話す』=アウトプットには、発音、語順、リズム、アクセントを必然的に伴う。
これらを鍛えるには、ネイティブの音声をもとにして、音読をする必要がある。
以上三つが、吉宏が見つけられた、著者による『話す』ことの定義と、そのトレーニング方法、つまり、日本人が英語を話せるようになるための処方箋である。
定義①~③とそのトレーニング方法について、②と③については、特に異論の余地はない。その通りだと思う。ただ、定義①については、なぜそれが重要なのかが吉宏にはわからない。
『もしなる』のシナリオと英語学習法の核心は、定義①を中心に組み立てられているのは確かである。
『もしなる』のシナリオは、著者の英語学習法=善、学校英語=悪というシンプルな構図であることを思い出してほしい。なぜ、学校英語が悪であるかと言うと、英語を日本語に翻訳して終わっており、その延長上には『話す』が存在しないからだと語られている。
また、ハウツー的には、英語を日本語に翻訳してしまうと、日本語の意味体系に囚われてしまい、『話す』ことの本質である『イメージの授受』に意味のズレ、言い換えれば意味の不純物を発生させてしまうことも語られている。
つまり、ここから考えられることは、著者が求めている『話す』英語は、英語を日本語に翻訳しないことで、日本語という不純物が一切介入していない、「ネイティブの頭の中に存在している、ネイティブの英語そのもの」、つまり、英語を母国語とする者の英語であるということは推察される。またそれは、一切日本語を介さずに、イメージと英語が正確に直結しており、頭の中にイメージを浮かべれば、即、英語の発話=『話す』こと、につながる英語であると考えられる。
では、英語を母国語とする者の英語は、英語ネイティブでない日本人に習得可能であるのだろうか?
『英語上達完全マップ』の著者である森沢洋介さんは、その答えを同書の中でこう書いている。
すべてにおいて母国語と同じレベルで英語を操るというレベルは、「天国」とか「ユートピア」などと同じく観念的にのみ存在するレベルである。
と。
『もしなる』の英語学習法は学校英語を代替しうるか?
さて、定義①『話す』ことは、『イメージの授受』である、ということが、『もしなる』の英語学習法の核心であることは前章で述べた通りである。そして、学校英語での翻訳を、『もしなる』が悪と考えていることも述べた。
では、『もしなる』の英語学習法で、現状の学校英語を代替することができるか? ということは、当然、問われなければならないと考える。
結論を先に言ってしまうと、著者の英語教育に対する理想はあまりに高すぎるし、著者の英語学習法では、現状の学校の英語教育を完全に代替することはできない、というのが吉宏の考えである。
以下に著者の英語学習法について、吉宏が疑問に思ったことについて考えてみる。
疑問点① 英語をまったく翻訳することなしに、英語を習得することは可能か?
どう考えても、吉宏には、不可能で非効率であるように思われる。
『もしなる』では、英語を翻訳することは、徹底的に否定されている。翻訳すると、日本語という不純物が、英語を侵食してくるからである。そのため、『もしなる』で推奨されている単語学習法は、日本語が侵食してこないように、英語が指し示している事物や場面を、写真や動画で見ながら、発話して覚えるという方法である。
確か、名詞・動詞・形容詞・接続詞にその方法が適用されている記述があったと記憶しているが、この方法で覚えられる英単語はどれくらいで、どれだけの時間と労力がかかるのだろうか?
写真や映像で見せることができる具体性のある単語については、この方法は適用しやすい。とくに物なら簡単である、ペットボトルなら実物を指さしながら、plastic bottleと唱えればよいのである。
では、revolutionのような抽象的、あるいは概念的な名詞ならどうだろうか、革命の写真や動画を見せながら、これがrevolutionだよ、と説明したら、相手は日本語を介さずに、「革命」という意味にすぐに受け取ってくれるのだろうか? 「暴動(riot)」や「襲撃(raid)」の意味に受け取る可能性はないだろうか? 理解が間違っているなら、「革命」と正しく理解してもらうまで、どれくらいの時間と労力がかかるのだろうか?
別の方法として、revolutionを英英辞典で調べれば、「革命」の意味にたどり着けるだろうか、英英辞典を持っていないので、何とも言えないが、revolutionの説明にはどれくらいの英単語が必要とされるのだろう? 相手はその英単語の意味をすでにすべて知っているだろうか?
さて、一体これらの作業は何をやっているのか? 英単語を翻訳することなしに、言い換えれば、英和辞典の手掛かりなしに、意味を理解しようとするということは、明治時代に、すでに我々のご先祖さまが挑戦したことではないのだろうか? 彼らの苦労の上に、我々は英和辞典や和英辞典という、膨大な知の集積を手に入れたのではないだろうか? わざわざそれを利用しようとしないのは、『もしなる』の吉原龍子の愛国心を損なわないのだろうか?
言い換えると、著者の英語学習法は、時代を先に進めるどころか、日本の英語教育の水準を明治時代にまで逆行させようとしている、非合理的なもののように思われるのである。
疑問点② 現状の学校英語の延長では、英語を『話す』ことは本当に不可能なのか?
『もしなる』では、現状の学校英語の延長線上に、英語を『話す』ことは存在しないと断言されている。なぜなら、著者にとっての英語を『話す』ことの定義の根幹は、日本語を介さない『イメージの授受』であるからである。翻訳している限り、日本語を介してしまうので、著者の『話す』の定義の実現は理論上、不可能なのである。
ここで、著者の『話す』の定義はいささか厳しすぎるのではないか? という疑問が起こる。
森沢洋介さんの瞬間英作文のように、日本語を英語に一瞬で翻訳すること、あるいは、日本語 → イメージ → 英語への変換を、『話す』の定義にしてしまえば、現状の学校英語の延長でも、日本人は話せるようになるのではないか? ということが考えられる。
もちろん、これを著者が受け入れるとは思えない。『もしなる』の英語学習法の根幹が崩れるように思われるからである。
疑問点③ 英語力の測定テストは不要なのか?
『もしなる』では、明確ではないが、英語のテストも否定されているように思われる。学校英語は使う英語ではなく、お勉強の英語であり、テストに出ない部分をおろそかにしてしまうという趣旨の記述が見られる。明確に英語のテストをするべきではない、とは書いていないが、テストが英語学習に悪影響があるように書かれている部分は見受けられる。
テストの手法が客観的でなく歪んでいれば、そのテストは否定されるべきかもしれないが、もし筆者が英語のテストすべてが不要という考えであるなら、その考えは誤りであると思う。
何らかの意味で客観的な英語力の測定テストがなければ、一体誰が英語ができて、誰ができないのかが完全に主観的な価値判断に委ねられてしまうので、誰の英語のスキルを信じていいか、非常にわかりづらくなってしまうからである。
『もしなる』の英語学習法は学校英語を代替しうるか? の結論
「『もしなる』の英語学習法の本質は何か?」と題した章で、『もしなる』の英語学習法の本質の部分を三つ提示した。再掲すると、
定義①『話す』ことは、『イメージの授受』である。
そのため、単語を覚えるときは、日本語を介さずに、イメージと英語を直接結び付けるのが望ましい。
定義② 『話す』ことは、『インプットしたものをアウトプット』しているだけでもある。
インプットが十分ある前提では、アウトプットの比率を上げること、つまり、英語を口から出す練習を大量にすることが、英語を話すうえで必須である。
定義③ 『話す』=アウトプットには、発音、語順、リズム、アクセントを必然的に伴う。
これらを鍛えるには、ネイティブの音声をもとにして、音読をする必要がある。
の三つである。
このうち、①の考え方は、学校英語と決定的に相入れず、前章の疑問点①で、非合理的で非効率なものであることは指摘した。②と③の考え方には、吉宏も異論はないし、現状の学校英語と矛盾するとも思われないので、学校英語と共存可能である。
結論としては、著者が定義①に見られるような、英語学習におけるユートピア思想を捨てるのであれば、定義②と③の考え方は、現状の学校の英語教育に取り入れることができる。しかし、定義①まで含めた、『もしなる』の英語学習法を取り入れるのであれば、それに付随する非効率性によって、現状の学校の英語教育を完全には代替することはできないと思われる、というものになる。
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